東京高等裁判所 昭和28年(う)2029号 判決
被告人 井上一郎 外一名
〔抄 録〕
被告人等の弁護人の論旨第一点について。
一、原判示第一の事実は、これに関する原判決援用の原審移送前台東簡易裁判所第二回公判調書中証人深井初五郎の供述記載及び証人星野喜重、同高野松造の被告人の逮捕に至るまでの各供述記載(原判決摘示の右証人等に対する供述調書の各記載とは、右公判調書の供述記載を指すことは明らかである)並びに領置にかかる給料袋一個の存在によつてこれを肯認するに充分である。右証拠によれば、被告人井上一郎は、金品をすり取る目的で、本件電車乗客深井初五郎の着用する洋服上衣胸ポケット内から手指を用いて給料袋(現実には空袋)を若干外に引き上げたことが明らかであつて、電車の乗客がかかるポケット内に財物たるに値する何らかの金品を所持することは通常の事態であるから、たとえ本件の場合たまたま右ポケツト内に財物たるに値する物がなかつたとしても、右被告人の行為は、一般的に金品窃取の結果を来たす危険のある定型的行為であるから、窃盗の実行に着手しこれを遂げなかつたものと解すべきは当然であつて、所論のように不能犯と解すべきものではない。原判決が、同被告人が金品を窃取しようとしたが、その目的を遂げなかつたと判示したことは正当である。
二、また、原判示第二の事実(但し、原判決摘示の印鑑証明とは、所論のように印鑑証明用紙の誤記であることが明らかである)は、これに関する原判決援用の証拠によつて優にこれを認めることができる。この犯行による被害物件の内容は、右証拠中の所有者の被害届に徴し、所論のとおりの物件と解されるのであるが、これは所論のような財物たるに値する経済的価値のないものではない。財物たるに必要な経済的価値は、所有者又は管理者の主観的価値をもつて足るものであつて、交換的価値を必要とするものではない。右被害物件は、所有者が意に介しないような物ではなく、原判示被害者にとつて少くも主観的経済的価値のある保護に値するものと解されるから、窃盗罪の客体たる財物に当ることは明らかである。
従つて、原判決が、被告人井上一郎の原判示第一の行為を窃盗未遂に、被告人等の原判示第二の行為を窃盗既遂に各認定し、それぞれその法条を適用したことは正当であつて、所論のような事実の誤認又は法令適用の誤をおかしたものではない。論旨は理由がない。